活動報告8(第24回~第26回)

第26回楠公研究会(第3回総会)

令和2年5月21日 木曜日

14時~16時(オンライン)

令和2年5月21日、弊会縁故在る尊き御神域にて、弊会楠公祭並びに武漢禍退散祈願祭、及びオンライン総会、全て滞り無く、執り行わせて頂きました。
至誠通天、神事にて、大楠公の御事蹟を讃えると共に、武漢禍を討ち祓わせて頂き、弊会会員一同で国體護持をお誓いし、お捧げさせていただきました祈りは、大楠公御神霊にお聞き届け頂き、当日に近畿3府県の緊急事態宣言解除が表明され、4日後の25日、まさに大楠公御殉節の日に、首都圏、北海道も同宣言解除の見通し在り、との表明も出されました!
神々、大楠公の御神威に恐懼しつつ、神々、そして大楠公御神霊に心より深謝申し上げます。
オンラインではございますが、共に祈りを捧げさせていただきました会員の皆様に、厚く深く御礼申し上げます。

神事に引き続いての総会では、昨年度の会計報告と活動報告、会則変更等の議題につきまして、会員皆様からのご承認を頂きました。

何よりも、天に祈りをお聞き届け頂きましての近畿圏の緊急事態宣言解除、首都圏、北海道等の解除見通しが立ちました事、これ以上無き喜びでございます。
誠に誠に、ありがとうございました!

皆様におかれましては、今後も油断無きよう、ご自愛頂き、幸多くご健勝にお過ごし頂きますよう、心より祈念申し上げます。

大楠公ゆかりの兜と短刀、そして父の形見の「七生報国」の湊川神社ゆかりの鉢巻を身に付け、祭典に臨みました。

神事、及び総会の詳細につきましては、後日、改めて御報告させていただきまして、まずは、緊急事態宣言解除をお喜び申し上げますと共に、神々、そして大楠公の御神恩に、そして、弊会会員始めお支えくださる皆様への感謝の辞とさせていただきます。

あた波を 防ぎし人は 湊川
神となりてぞ 世を守るらむ

令和2年5月24日追記

「YouTube山下弘枝チャンネル」より

延元元年(1336年)の5月25日、大楠公が七生滅賊を誓い御殉節をされた日に当たっての緊急事態宣言全解除という、大楠公の大いなる御神恩によって齎された奇跡に感謝を捧げさせて頂きます。
先日の弊会主催の楠公祭並びに武漢禍退散祈願祭では、尊く篤き御神意を賜りました。
祭文を奏上させて頂くべく、御神体の御前に着座した直後、それまで静まり返っていた境内が一変、突如として多くの鳥達が飛来し、御本殿前にて、一斉に鳴き始めたのです。
(下のYouTube山下弘枝チャンネル「第四回総会」動画の5:19辺り〜)↓

https://youtu.be/9Szv8sCTI70

 

古来、鳥は神々の御魂をお乗せし運ぶ神の使いとされてきました。
名だたる神社の御神紋に鳥が多く使われている事や、「鳥居」の語源等からも、鳥に対する信仰の篤さが窺われます。
また、祭文を読み進めるにつれ、日差しが差し込んできたのも、同じく不思議な現象でした。
大楠公始め楠木一族の御魂が、鳥に載って降臨されたのだと確信致しました。
また、神事を斎行しました5月21日は、期せずして、60日に一度としか無い甲子日であった事も、後日、FBFよりお教え頂き気付いた次第でございます。
果たして、その御神託は、緊急事態宣言全解除となって顕れたのでした。

 

不思議な事はその後も続いています。
神事を終えて以後、毎夜、時鳥が私の部屋の前にやって来てしきりに鳴くようになりました。

 

〜共に見送り見返りて 別れを惜しむ折からに 
またも降り来る五月雨の 空に聞こゆる時鳥 
誰か哀れと聞かざらん あはれ血に啼くその声を〜

 

唱歌「桜井之訣別」にも謳われている時鳥は、「不如帰」(帰れる事に勝るのとはない)とも表記されます。
この宛て字は、中国の故事に因み、宛てられた漢字。
蜀の聖帝・杜宇はその死後も、霊魂がホトトギスに宿り、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるようになりました。
後に、蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 帰るべき祖国が在るという事に勝るものは無い)と、血を吐くまで鳴き続けました。
唱歌「桜井之訣別」の最終章に時鳥が登場するのは、蜀の秘話を父子訣別に絡めて編まれたものなのでしょう。
「てっぺんかけたか」
先日の楠公祭・武漢禍大楠公の御魂は天上を天翔け、皇国を支那禍からお救いくださったのです。
改めて、祭文奏上の動画を当日ご奉職下さった神職御一同様にても何度も確認頂き、この不思議な神秘的現象に驚いております。

 

流石は、神国大日本。
我々の祖国を何としても護らねばなりません。
禍を世界にばら撒きし蛮国に、そして国内に蔓延る国賊に天誅を。

 

さあ、愈々明日、大楠公の御神託により、遂に、緊急事態宣言全解除へ!

 

大日本彌榮


☆第25回楠公研究会☆

「楠公父子二世代に亘り支え続けた

名将にして守役・恩智左近の知られざる実像に迫る」

~恩智神社~

令和2年3月20日 金曜日

14時~16時

3月20日春季皇霊祭の佳き日に当たり、第25回楠公研究会、盛況裡に開催させて頂きました。
https://youtu.be/U8j4LBuwSlQ
開催に当たっては、新型コロナ禍の世情を鑑み、体調不良や発熱、咳のある方のご参加を自粛いただいての開催とさせていただきました。

今回は、楠公父子の守役にして楠木家の筆頭家老・恩智左近について学びました。

守役であった左近は、正成の幼少期からその養育係を務めました。
非常に教育熱心であった左近の教えを受け、正成の稀代なる事蹟の素地が築かれたのでした。

正成の死生観のその大義、そして、後醍醐天皇の真の理念は、恩智左近を知らずして語る事ができないのです。
桜井の駅にて、楠公父子が訣別する際には、左近は正成から嫡男・正行を託され、河内へ連れ帰り、後見人として正行の養育に当たる事となりました。
湊川への供を許されなかった無念の中、河内へ帰還した左近は、自らが主君から与えられた大使命、それは、後に残され、楠木家の棟梁にして吉野朝を背負っていく大きな重積を担う事となる正行の養育、その大使命に全身全霊を傾けていきます。

かくして、正行もまた、父に勝るとも劣らぬ、文武両道に非常に秀でた吉野朝が誇る随一の武将へと成長していったのです。
そして、四條畷合戦。
ここで、左近は、ようやく主君と運命を共にする事となります。
正成、正行同様に、左近にも思い残す事は微塵も無かった事でしょう。
何故なら、自らの死生の事蹟が原動力となり、必ずや、後の世の人々が王政復古を成し遂げる事を予知していたから。
ここに、正成、正行二代に亘り、その父代わりを務めた老将の生き様死に様の、隠された、しかし、非常に大いなる忠義の物語があったのでした。

「誠に知仁勇の三徳に秀で、賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」
敵方の足利家伝「梅松論」にすら賛美され、王政復古後は、軍神になった正成正行父子。
彼ら二代にまで亘り、自らは見える事の無き縁の下で支え続け、その後の数百年もの間、日本人の心の支えの要となった楠公精神の素地を生み出した、大いなる影の立役者・恩智左近の余りにも偉大な事蹟を、恩智神社にてお教えいただきました。

御講話をくださいました新海宮司様、お繋ぎくださいました美具久留御魂神社の青谷名誉宮司様に、厚く深く御礼申し上げます。
我が国に於いて、疫病鎮めの随一の御神徳を有する恩智神社にて正式参拝の栄に浴した事、時はまさに新型コロナ禍の中にあり、ご参列いただきました皆様へ疫病退散の大いなる御神威をお授けいただけました事は、望外の幸せに存じます。(※正式参拝は厳修につき、写真撮影は厳禁でありますので、ここでのご報告は控えさせて頂きます事、ご了承ください)

勉強会の後の懇親会では、有志の皆様と、親交を深める楽しいひと時を過ごさせていただきました。
遠路、お越しくださいました会員の皆様に、深謝申し上げます。


第24回楠公研究会

南朝皇居・妙光寺と

皇室ゆかりの総本山仁和寺

令和2年2月20日木曜日

12:00〜16:00

「第24回楠公研究会~南朝皇居・妙光寺と皇室ゆかりの総本山仁和寺、国宝にして現存最古の紫宸殿特別公開」は、去る2月20日、皇室と最もゆかり深き筆頭門跡寺院であり真言宗御室派総本山の仁和寺、そして、南朝皇居であった宇多野の妙光寺にて盛況裡に開催させていただきました。

今回も、格別なるご厚遇を賜り、他では体験できぬ大変貴重な学びを得る事ができました。

まずは、真言宗御室派総本山仁和寺での勉強会のご報告から。

とても懇意にさせていただいております真言宗御室派宗務総長の吉田様よりご挨拶を、そして、同宗務部長の鴨井様のご丁重なるご案内にて、通常非公開にて堅く鍵が為された国宝・金堂内に特別のご配慮にて立ち入らせていただき、堂内にて燈明を掲げていただきつつ御焼香を上げさせていただき、御法話を賜りました事は、参加者一同、大いに感動と感激の極みであった事は言うまでもございません。

仁和寺の歴史は仁和2年(886年)第58代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まります。 

しかし翌年、光孝天皇は志半ばにして崩御されたため、第59代宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和4年(888年)に完成。寺号も元号に因んで仁和寺となりました。

仁和寺では、光孝天皇、宇多天皇の御聖蹟を学ぶ事により、皇統の正しい在り方について改めて知る事ができました。
第五十九代の天皇である宇多天皇は、元慶8年(884年)、光孝天皇の叡慮により臣籍降下し、「源定省(みなもとのさだみ)」と称されましたが、仁和3年(887年)、再び皇族に復帰し、光孝天皇の皇太子となり、光孝天皇崩御後、即位して宇多天皇となられました。これは臣籍降下した元皇族が、男系継承に則って再び皇籍復帰し、天皇に即位した前例として、古くは継体天皇御即位に次ぐ非常に有名な御聖蹟と言えましょう。
 
宇多天皇は寛平9年(897年)に譲位、後に出家し仁和寺第1世 宇多(寛平)法皇となります。以降、慶応3年(1867年)の第30世・純仁法親王の還俗に至るまで皇族が仁和寺の代々住職(門跡)を務め、最高格式である筆頭門跡寺院となったのでした。
  
今も尚、霊明殿では、錦の御旗の写しが掲げられています。

今般、弊会への格別なるご配慮を賜りました吉田総長様、鴨井宗務部長様に厚く深謝御礼申し上げます。

そして、もう一つの会場となった京都宇多野に建つ南朝ゆかり深き臨済宗建仁寺派の妙光寺では、特別な許可をいただき本坊にてお参り、芳賀由芳住職様より御法話をいただきました。

山号を正覚山。
鎌倉時代の公卿・花山院(藤原)師継が、早世した長子・忠季(ただすえ)を悼み、その幼名・妙光丸に因み「妙光禅寺」を建立した事が妙光寺の縁起。
御本尊は釈迦如来。
鎌倉時代、第90代・亀山天皇、第96代・後醍醐天皇の勅願寺となり、後醍醐天皇が一時期、ここに皇居とされ三種の神器が奉安されたと伝わります。南北朝動乱の幕開けとも言うべき1331年の元弘の変の折には、後醍醐天皇の身代わりを務めた花山院師賢(もろかた)がこの地より天皇のもとに参じています。

建武年間(1333-1336)、後醍醐天皇は三種の神器と共に一時、妙光寺の神器の間に逃れたと伝わります。

また、楠木正成公は、湊川合戦に赴く為に都を出立する前夜、ここ妙光寺に参禅、意を決して湊川へと赴きました。
その後も第97代後村上天皇(1328-1368) の勅願寺になり、所謂、後南朝時代である嘉吉年間(1441-1443)には再び三種の神器は妙光寺内「神器の間」に奉安されました。
 応仁の乱(1467-1477)の折には、仁和寺と同じく、後南朝皇胤を奉じた西軍の陣地となった為に、戦火に遭い荒廃。更に、1868年神仏分離令後の廃仏毀釈以後、一時無住となり、塔頭、末寺は廃絶、建物は建仁寺、静岡・鉄舟寺などに移されて現在では、芳賀住職様によって妙光寺の歴史は引き継がれています。

通常は拝観する事のできぬ堂内及び庭園内を丁重にご案内いただきました芳賀住職様に、心より厚く深謝御礼を申し上げます。

今回の研究会に、寒空の中、遠路お越しくださいました参加者の皆様に、深く厚く感謝申し上げます。

当会は、当会だからこその、そして当会にしかお許しいただけぬ特別体験をしていただきる事が、何よりの特色です。
ぜひ、今後も多くの皆様のご参加を心待ちに致しております。